■「商い」を考える その1
(NO.17)
1872年のボン・マルシェの店内
年が明けました。本年もよろしくお願いします。
さて、商業の歴史は古いです。人類最古の経済行為は余剰生産物の交換ですが、商品が生まれ貨幣が発明されると商人が活躍します。その活動範囲は想像以上に広くて、陸路と海路によるシルクロードなんていうのはあまりにも有名です。たくさんの商人がキャラバンを組んでアジアとヨーロッパを行き来する様子を思い浮かべるだけでワクワクしませんか。商人たちが運んでいたのは東西の商品ですが、それは同時に「文化」を運んでいたのです。異なる文化に接すると軋轢や摩擦が生まれますが、それが商品だと社会にうまく溶け込んだりします。文化の融合です。商人は異文化の運び手であり、時には物語の話し手だったりしたのです。商人は同時に「異邦人」だったのです。
ところで、そういった商人はヨーロッパでも日本でもその地位は高くありませんでした。というより、軽んじられていた、場合によれば軽蔑さえされていたと言うほうがいいでしょうか。江戸時代の「士農工商」はご存じですね。物を作り出す農業や工業の方が価値があると考えられていたわけです。商人はすでに出来上がった物を右から左に流すだけ。それだけで儲けるなんて、というわけです。
でも、商いはそれだけではありません。仕入れる商品と買い手を見極め、駆け引きを駆使する商人の仕事は熟練労働なのです。「安く買って高く売る」ことは容易くはありません。年季が要る仕事なのです。かつての丁稚奉公はこの熟練労働を育てる制度だったのです。誰が作っても同じ物をお愛想の笑顔で販売するのとは随分とわけが違います。
1872年のボン・マルシェ新館
産業革命が進んで近代都市が生まれてくると、商人は都市に定住して店舗を構えるようになります。その頃フランスは花の都のパリで生まれたのがデパートメント・ストアです。これが最初の近代的商業です。衣服販売業者のA・ブシコーが創業者で、店の名前は「ボン・マルシェ」。英語で言うとグッド・マーケットです。1852年のことです。
では、何が「近代的」だったのでしょうか。値段や品質をめぐって駆け引きをしていたそれまでの伝統的な商業に対して、デパートは定価販売をおこないました。つまり、誰が買っても同じ商品は同じ価格なのです。今では当たり前ですが、当時は画期的なことだったのです。その背景には、経済の近代化=工場化と技術革新が進んで、均一な商品を製造できるようになったことがあります。
あと商品の陳列、返品・返金制なども実現しました。こうして生まれたデパートは英国や米国でも続々と開店されるようになります。近代都市で生まれた近代商業ですから、デパートは「近代の象徴」と言われるようになりました。
さらに重要なことをブシコーは実践しました。それは・・・・・・
次回のお楽しみに。
(ボン・マルシェの絵はいずれも鹿島茂『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書、1991年)より)
(2009.1月発行)