■三宮センイ商店街(中央区)(NO.36)

昭和45年ごろの三宮センイ街
 神戸の商店街で、もっともエキゾチックな空間。それはJR三宮駅西口から高架下沿いに西へ広がっている。国の内外から取り寄せられた、目にも鮮やかな色とりどりの生地が豪快に並べられている「三宮センイ商店街」だ。
 太平洋戦争終戦直後、PX(アメリカ軍の基地内売店:当時は大丸)の放出物資や軍隊の横流れ品の”掘り出し所”としてスタート。昭和23年8月には前身となる三宮繊維百貨組合が結成された。
 他のヤミ市と比較し、外国人のみが買える品を山のように取り揃えていたため、非常に高級なムードがあった。衣料キップ制度時代、外国製洋服生地や日用品は飛ぶように売れ、東京神田の”アメ横”と並び称された。
 そして、繊維が一番隆盛したのが、戦後から朝鮮動乱が起きる昭和26年前後。毎日仕入れにいかないと追いつかない状態だったという。昭和40年に三宮センイ街、昭和50年に振興組合となり現在の商店街名に改称。九州、四国、山陰など西日本全域から業者が買い付けに訪れた。
 平成7年1月の震災で壊滅的な被害を受けた同商店街だが、「震災の3、4年前から実は売上が落ちてきていた」と回顧するのは前田邦宏理事長。西日本の繊維の中心は神戸だったが、神戸の繊維業者が大阪の船場などに拠点を移し、大阪が東京に対して影響力を持つようになってきたためだ。
 震災直後の96年にアーケードを整備するなど、ハード面の復興に努めてきたが、震災から生活が安定してくると、服飾生地よりも安価な既製品が主流になってきた。また、従来の服飾雑貨、生地などファッション関連が中心の業種構成から、時代の流れもあり、異業種の参入も増えてきた。

現在の三宮センイ街
 三宮センイ商店街に関わらず、日本中で服飾生地の業界が苦戦している。「お客様の高齢化が大きな原因で、生地から服などを仕立てる人が本当に少なくなった」と前田理事長は危機感を強める。洋裁学校も限りなく少なくなり、ミシンや裁縫をこなす若年層も急激に減少している。また、巷には安価な既製服があふれている。大規模生地手芸品店の神戸進出の影響もあったようだが、一時は離れそうになった昔からの顧客も、「本物志向」を強めて戻りつつあるという。
 現在の三宮センイ商店街の前には空港バスの出発地点もあり、人の波が途切れることもない。アーケードや歩道が整備、拡幅され、大勢の通行客で賑わい、通行しやすい反面、昔の雑多なにぎわいを懐かしむ声もある。
 「竣工から12年を経たアーケードを修繕し、さらに明るくしてお客様に安心してお買い物を楽しんでいただきたい」(前田理事長)と、「神戸の玄関口」として、雑多なにぎわいと美しい街づくりの共存を見据えている。
 三宮センイ街は、ウィンドーもガラス戸もない、むき出しの色彩が迫力満点で、なお且つ洗練されている。ヨーロッパとアジアが合流するオリエントな雰囲気が漂っている。それもそのはず。戦後当時の商店主の半数以上が韓国・朝鮮・中国・台湾・ロシア・トルコ(イスラエル系)人たちであったからだ。
 厳しい商業環境に置かれつつも、地域密着の商店街と一線を画し、超広域型の専門業種集積として発展を続けてきた三宮センイ商店街。まさにオンリーワンの商店街として、独特の存在感をこれからもずっと発揮しつづけるだろう。
(2008.9月発行)